トノバンさんの死が自分の中でちょっと尾を引いている。
ユキヒロさんと親しかったというだけで、私にとっては
親戚の叔父さんが急死したような気分なのだ。
彼の遺書にあった
「今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか」
という言葉が胸に深く突き刺さる。
聞く側が必要性を感じなくなっただけでもとても悲しく思うのに
それが発信する側だったとしたら…。
残酷な結果になってしまったのには
多少なりとも理解ができる。
私が中学1年生だった時、
今思えばすごくユニークな先生に音楽を教わっていた。
音楽の教科書はほぼ使わず
先生が手描きで書いたガリ版の楽譜を見ながら歌う。
その曲は、すべて70年代のフォークソング。
歌の授業が終わったら教科書の譜面をノートに写して
終わった人から帰って良いという型破りな授業だった。
私がメロディアスな曲が好きなのと
楽譜が読めるようになったのは、この授業のおかげだ。
そしてこの授業で、好きだなと思った曲がある。
「あの素晴しい愛をもう一度」や「白い色は恋人の色」。
誰が作ったかも知らずに歌っていたのだが
どちらもトノバンさんの曲だと知ったのは
もっと大人になってからのことだった。
音楽家・トノバンさんの存在を初めて意識したのは
矢野顕子さんのアルバム『愛がなくちゃね』で
「悲しくてやりきれない」のカバーを聞いた時。
原曲よりも存在感のある曲に仕上がる“矢野さんマジック”もプラスされ
そのあまりの切なさに胸がしめつけられた。
ニュースではフォークルやミカバンドなど初期の曲ばかりが取り上げられ
奇抜でアグレッシヴな印象を与えがちだが
私が「いいな」と思った曲から察するに
実はとてもセンチメンタルでロマンチックなかただったのだと思う。
思うように曲が作れない歯痒さがあったのだろうか。
今の自分を受け入れてもらえないのは
芸術家としてはつらいことだけれど
過去に残した曲を何度も耳にするのは
「名作」のみに与えられた特別なことではないだろうか。
トノバンさんの曲と同じように
子供の頃から何度も耳にしていた大好きな曲があった。
それがバート・バカラックさんの曲だと知ったときの嬉しさ。
バカラックさんも70年代以降目立った活動はしていなかったが
昨年の来日公演ではご高齢とは思えぬほど活き活きとしていらっしゃったし
往年の名曲が次々演奏されていくのは本当にうれしかった。
聞く側も、そして演奏する側も、長生きしていて良かったと思えた瞬間だった。
ねえねえ、トノバンさん。
そういうんじゃダメだったの?
あたし、バカラックさんにもジョアン・ジルベルトさんにも
とってもとっても感動したよ。
お年を召した人にしか出せない味っていうのがあると思うよ。
確かに昔に比べて音楽を欲する機会は減ったかもしれないけど
無くなるととっても味気なくてつまんないよ。
でも、それに悩んで逝ってしまったトノバンさんは
きっと年齢に見合わないような
青くて熱い“アングリーヤングメン”だったんだろうな。
 | 愛がなくちゃね。 矢野顕子
曲名リスト 1. 愛がなくちゃね 2. 悲しくてやりきれない 3. ホワッツ・ゴット・イン・ユア・アイズ? 4. おいしい生活 5. みちでバッタリ 6. 女たちよ男たちよ 7. あいするひとよ 8. スリープ・オン・マイ・ベイビー 9. アナザー・ウエディング・ソング 10. どんなときも□どんなときも□どんなときも 11. グッド・ナイト
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